「敵に塩を送られた」ことが起源なの!?長野県松本市の“松本あめ市”をレポート

上杉軍と武田軍が塩を奪い合う!・・・ってなんで!?

新春の長野県松本市がもっとも賑わう行事“松本あめ市”が、2018年(平成30)年1月13〜14日に開催された。

当日(14日)は、松本城へ続く本町通りを中心に歩行者天国となり、お神輿や太鼓、さまざまなパレードが繰り広げられた。

付近には“飴”をはじめとした、縁起物や食べ物の屋台が立ち並び、上杉軍・武田軍に分かれて綱引きを行う「塩取り合戦」や、日本各地の飴が一堂に集められた「全国あめ博覧会・即売会」などが行われ、大いに盛り上がった。

松本あめ市のポスター(画像:松本市ホームページより)

上杉謙信の送った“義塩”が起源

まずはおさらい。

“松本あめ市”の起源は、戦国時代にさかのぼる。

当時、戦国大名の武田信玄と上杉謙信は北信濃(長野県北部)の領有をめぐって争っていた。両者が戦った「川中島の戦い」は有名だが、その戦いは5度、11年間(1553<天文22>年〜1564<永禄7>年)にも及ぶ。いわば2人は宿命のライバルだ。

川中島古戦場(八幡原史跡公園・長野市)にある両者の銅像

その後、1568(永禄11)年に信玄は「桶狭間の戦い」に敗れた今川家を見限り、武田・北条・今川による三国同盟を破棄。今川領であった駿河(静岡県中部)を手に入れる。これに怒った今川家は武田家に塩を売ることを禁止した。

こうしたことから武田家の領地であった甲斐(山梨県)と信濃(長野県)の領民たちも塩を手に入れることができなくなり苦しんだ。そもそも、これらの国は海に面しておらず塩を自給することができなかったのだ。

この窮状を知って、手を差し伸べたのがほかでもない謙信だった。いくどとなく戦いを繰り返し、敵対してきた間柄であったが、「あくまでも戦で決着をつけるべき」として、越後(新潟県)の塩を送ったという。この出来事は「敵に塩を送る」という故事の語源にもなった。

謙信が送った塩が松本の地に届いたのが1569(永禄12)年の1月11日。この日を記念して始まった「塩市」が、「松本あめ市」の起源だと言われている。

と、このようなことらしい。

新潟県糸魚川市から松本に至る千国(ちくに)街道は、「塩の道」と呼ばれている

松本あめ市をレポート

まずは、見ておきたかった「牛つなぎ石」を目指す。越後から塩を運んできた牛が繋がれた場所だということだが・・・

あった

なるほど。明治時代に塩が国による専売となって「塩市」は「あめ市」になったのか

ちなみに・・・

この日も牛が繋がれていた

看板の最後に「子供らは専(もっぱ)らダルマを売り将来の商人の原点を学びます」と書かれていたが・・・

その伝統は今日も息づいている

「あめ市」と言うからには、やはり飴でしょ! ということで屋台を物色していく。

飾り付けからして古くからの飴屋さん?

と、そこら辺じゃ買えないようなクラシックな佇まいの飴が売っていたり・・・

お祭りの屋台っぽい飴屋さんには

極めて今日的なキャラクターの飴もあったりする

的屋さんっぽいこの屋台の売りはこんぺいとう

(・・・こんぺいとう以外の飴もあるね)

でも、大人が買っても嬉しい!

(買ったばかりのこんぺいとうを道にをぶちまけている子供がいた。当然お母さんに怒られていて、その諸行無常すぎる光景にこっちまで泣きたくなる。・・・誰もが通る道だよ)

こちらも気になっていた「全国あめ博覧会・即売会」会場

地元である松本市産の飴・8種を加えた、全国96種類の飴が一堂に会するファン垂涎の飴の祭典(大阪のおばちゃんたちにも知ってほしいわー)。その全貌は「・・・よくぞここまで集めたね」に尽きる。

その中でもちょっと気になった飴をピックアップしてみると・・・

パッケージからしてキッコー〇〇的な「しょうゆ飴」に、元祖・飴!の風格が漂う「黄金糖」

日本人のソウルに何故か宿る「金太郎飴」に、縁起が良さそうな「ミニ鏡餅」

見るからにスイーツな「バニラミルク飴」に、ネギは確かに喉にいいよね・・・「九条ねぎのど飴」

「飴に棒は必須でしょ!」の「ねぶりっ子」に、やはりあったか「パクチーキャンディー」

実に多彩で飴メーカー及び職人たちのオリジナリティーに脱帽する。

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