長野県・遠山郷を原点に“故郷”を撮り続ける写真家!秦達夫さんの“これまで”と“これから”

竹内敏信写真事務所へ

「先生に『就職せずに写真家を目指す』と伝えると『それなら竹内敏信写真事務所に行ってこい』って言われて『でも、竹内先生は倒れているのにアシスタントの仕事があるんですか?』って聞くと『まもなく復活するから』ということで面接に行ったんですよ」

写真展には自身の写真集、著書をはじめ、遠山郷のパンフレットも置いてあった

「竹内先生が、面接の帰り際に僕を見て『写真を見てやるから作品が溜まったら持ってこい』と言ったんです。それで『溜まったら持ってこいということは、僕はこの事務所に毎日来る人間じゃないんだな』と思いました」と秦さん。

「つまり『不合格なんだな』と思って帰宅すると、竹内先生のアシスタントから『いつから来ることができる?』と電話がかかってきた。いや、俺、不合格だし『バイトがあるからすぐには行けません』って言ったら『舐めてるのか? お前』って言われて・・・どうも合格だったらしいです(笑)」

「それで、事務所に行ったら『なんでお前が来るんだ?』ってからかわれて(笑)そこから3年間お世話になることになりました」と当時を振り返ってくれた。

整然と作品が並ぶギャラリー

竹内敏信写真事務所でのアシスタントとは、どのような存在なのだろうか?「常時3人いるんですけど、ファースト、セカンド、サードといて、上の2人のどちらかが先生の行くところへ同行する感じです」

まずは“サード”になった秦さん。ちなみにアシスタントは一定期間で入れ替わっていき、先輩がやめると上位にスライドするシステムだったということだ。

積極的にお客さんとコミュニケーションをとる

多くの門下生を輩出したことでも知られる同事務所だが「僕は8番目の弟子で、アシスタントとして加わった時のファーストは福田健太郎(ふくだ・けんたろう)さん、セカンドが清水哲郎(しみず・てつろう)さんでした。今は、それぞれ売れっ子の写真家になりましたよね。先輩たちは優秀なんです(笑)」と笑う。

そして、竹内先生の仕事をまじかで見ながら、弟子同士で切磋琢磨する日々が続いた。秦さんの言葉によれば「・・・かろうじて喰らいついていった感じ」という3年間を過ごして、秦さんはフリーとして独立する。

フリーにはなったものの

しかし、フリーになったからといってすぐに生活できるようになるわけもない。

仕事が全然なくて、家賃を5ヶ月分滞納しました(笑)大家に『出てけ!』って言われて『5ヶ月分くらいで出てけって言うんだよ』と、まわりの人に愚痴ったら『そんなに待ってくれる大家なんていない』って言われて(笑)・・・今考えるとひどいですよね(笑)」と、相当な極貧生活だったようだ。

「当時、鳶のアルバイトをしていたのですが、滞納した家賃は返せなくて・・・たまに写真の仕事もあるんですけど、フィルムすら買えないので仕事にならない(笑)

「だから、事務所に行って後輩のアシスタントたちに『フィルムを貸してくれ』って頼む。返さないんですけどね(笑)」と笑う。

「ある時、鳶の棟梁が『なんでお前2足の草鞋を履くんだ?』て聞くんですよ。よく話を聞いてみると『お前は鳶になれ』ってことなんですけどね(笑)僕はアシスタント経験者なので、仕事の段取りなんかで、他の人たちよりも使い勝手が良かったのかもしれない。でも、その話を聞いて鳶を辞めました」という。

作品と一緒に作者をパチリ

「そして、2足の草鞋から1足に決めたら、急に大きな仕事が入ってきて『人生ってすごいなぁ』って思いました(笑)その仕事で、滞納していた家賃を返したんですよ『これならやっていけるじゃん!』って思っていたら・・・そんなに甘くなくて、またすぐ3ヶ月分滞納してしまい『今度こそ出てけ!』って大家さんに言われ、そのオンボロアパートを出ることになりました」

「でも、その頃にはだいぶ仕事が入るようになってきて・・・クライアントに依頼されて撮影に行く“カメラマン”的な仕事ですが。あとは、写真教室の仕事も依頼されるようになった。そういう仕事をしながら自分の作品を撮るというサイクルが、だんだんまわるようになっていった。そして、だいぶマシなアパートにも住めるようになりました」ということだ。

 

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