長野県飯田市で開催されていた写真展を取材していた時のことだ。
静かだった会場が突然賑やかになった。そしてドカドカと乗り込んできたのは・・・サングラスをかけたサンタクロース!?
話を聞いてみると、このサンタクロースの集団は神来鈴(ジングルベル)というグループで、毎年クリスマスに合わせバイクで飯田市内の児童保護施設や病院、ショッピングモールなどをまわって子供たちにお菓子を配っているという。
このグループを立ち上げたのが、冒頭のサングラスをかけたサンタクロース=木下さんだ。職業は革職人で、この写真展に展示されていた作品の被写体にもなっているという。
革職人がバイクに乗って、子供たちに夢をあたえるサンタクロースをやっているなんて・・・かっこいいじゃん! でも、いったいどんな経緯でこのようなことをはじめたのだろう? とても気になる!
というわけで、後日改めて取材をさせて頂いた。
お邪魔したのは、長野県飯田市の中央自動車道・飯田インターチェンジにほど近い、木下さんのご自宅兼工房だ。
ご自宅兼工房には、ご両親が経営する美容室も併設されており、その一角でお話を伺った。
ラクビーに打ち込んだ学生時代
ーーまずは、フルネームを教えてください
木下英幸(きのした・ひでゆき)です。1973(昭和48)年生まれ。団塊ジュニア世代ですね。
工房の名前「ハナブサレザー」は、自分の名前の1字を取った“英(はなぶさ)”から名付けました。名前を入れた方が、作ったものに対して責任が持てると思って。
ーー飯田市の出身なんですか?
そうです。長野県飯田高等学校の卒業です。“猫も杓子も大学へ”という時代だったこともあって、一浪して千葉県にある東洋学園大学に入学しました。その頃、熱中していたのはラクビーなんですよ。
ーー大学はラクビーで有名だったんですか?
全然有名じゃない(笑)。というか、新設校だったのでそもそもラクビー部はなかったんです。でも、どうしてもやりたくてサークルを作りました。その後、だんだん人も集まって2年目くらいには部に昇格したんですけど。
当時は、千葉県松戸市に住んでいました。近くに自衛隊の駐屯地があって、そこで7人制ラクビーの大会が開催されていたので、参加させてもらったりしていたんですけど・・・大学在学中はラクビーに関しては不完全燃焼でしたね。
そんなこともあって、1年間ニュージーランドへラクビー留学をすることにしたんです。
ーーニュージーランドはラクビーの強豪国ですよね。留学はどんな感じでした?
素晴らしかったです! ちゃんといじめの洗礼も受けたしね(笑)。助けてくれたのはサモア人で、お互いに現地では外国人扱いされていたこともあって、とても仲良くなりました。
試合に出てもはじめはパスがもらえない(笑)。でも、少しずつ結果を出していくと、仲間にしてくれるというか・・・ラクビーはニュージーランドの国技なので現地の人たちはプライドを持っているんです。日本のラクビーとは全然違っていました。
最終的には、所属していたクラブチームの2軍でレギュラーになることができました。でも、留学期間は1年間だけだったし、日本に帰る日も近づいてきて・・・
監督には「僕はずっとニュージーランドでプレイする」と嘘をついていたんです(笑)。そう言っておかないと、レギュラーから外されてしまうので。でも、ずっと黙っているわけにもいかなくて、帰国の1週間前に「実は来週日本に帰らなければならないんです」と打ち明けました。
ーーどうなったんですか?
向こうも受け入れるしかない(笑)。それで、サモア人の友達が「お前は、日本の両親にどうやって、こちらでの成果を伝えるつもりなんだ?」と聞いてくるから「話して伝えるつもりだよ」と答えたら、彼は自分が出場すことになっていた大切な試合を休んで、僕の最後の試合に来てビデオを撮ってくれたんです。
ーーおお! 美しいですね
本当にいい奴だった。そうして、最後の試合が終わったあとチームのクラブハウスに行くと、ちょうど1軍が優勝パーティーの真っ最中で・・そんななか、監督が「今日は1軍が優勝したけど、2軍にもビックニュースがある」とみんなに話を切り出しました。
「2軍には日本人のメンバーがいて、最初は本当に下手くそでどうしようもなかった。でも、そいつは練習を1回も休まずにがんばって、今ではレギュラーを勝ち取っている。しかし、そいつが日本に帰ることになってしまった」と話しました。
チームには、1軍しか着用することが許されないネクタイがあったのですが、監督が「チームのネクタイをこいつにやりたいと思うが、やってもいいか?」ってみんなに聞いたんです。そうしたらメンバー全員が「イエーイ!!」みたいな感じで認めてくれて(笑)
ーーおー!
・・・涙が出ました。なんか映画のワンシーンでしたね(笑)。そして、ラクビーはやり切ったと思いました。