長野県民の多くが歌えることで有名な県歌『信濃の国』の6番にこんな歌詞がある。
吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山
穿つ隧道二十六 夢にもこゆる汽車の道
意味は、だいたい以下の通りだ。
- 『古事記』や『日本書紀』に登場する日本武尊が、かつて長野県に入る際に、人柱となった妻のことを思い出して「ああわが妻よ」と嘆いたといわれる碓氷山
- そこに今ではトンネルが26も建設され、難所であった碓氷峠を汽車で越えることができるのは夢のようだ
このように関東と長野県を繋ぐ峠として、また、江戸時代には五街道の1つ中山道の関所が設置されていた碓氷峠は、古来より交通の要衝、難所であり続けた。
『信濃の国』が作詞されたのは1899(明治32)年。群馬県・横川駅〜長野県・軽井沢駅間に鉄道が開通したのが1892(明治25)年ということなので、『信濃の国』では、当時最新の交通手段による“峠越え”を、誇らしい気持ちで歌詞に採用したのではないだろうか。
しかし、鉄道が開通したとはいえ、その後も碓氷峠が難所であることは変わらなかった。当時の蒸気機関車は大量の煙を吐き出し、しかもトンネルが連続することから乗客や乗務員はたいへんな苦痛を強いられたそうだ。
また、稀にみる急勾配に鉄道を通すため「アプト式」という鉄道システムが採用された。これは、線路上に特殊なレールを配置し、車両に装着した歯車と組み合わせることで登坂するというしくみだ。
戦後になるとルートの改良や技術革新が進み、横川、軽井沢の両駅で補助の機関車を連結することによって峠を越えられるようになり、増大する旅客、貨物に対応した。
この時代に登場したのが、駅弁「峠の釜めし」だ。特急「あさま」を利用する際に、この地で買い求めた思い出を持つ方も多いのではないか。
現在では、北陸新幹線や上信越自動車道が群馬と長野の県境を貫き、古来からの難所は解消された。しかし、新幹線の開通に伴って『穿つ隧道二十六 夢にもこゆる汽車の道』と歌われた、信越本線の横川駅〜軽井沢駅間は廃止となった。
廃線となった線路の一部は現在、遊歩道「アプトの道」として整備されており歩くことができるという。
「これは歩いてみたいでしょ!」ということで現地に出かけてきた。
アプトの道と碓氷峠鉄道文化むら
アプトの道の起点となるのは、群馬県安中市のJR信越本線・横川駅の西側にある、鉄道のテーマパーク「碓氷峠鉄道文化むら」だ。
アプトの道とその周辺には見所も多いが、折り返し地点である「熊ノ平(旧熊ノ平駅)」までの距離は約6km。往復で12kmあるので(所要時間は約4時間と案内されている)結構長い道のりとなる。
アプトの道と並行して走るトロッコ列車「シェルパくん」で、起点から2.6km先にある「峠の湯」まで行けるので、タイミングを合わせて利用するのもいいだろう。ちなみに、乗車する場合は鉄道文化むらへ入園する必要がある。
今回はアプトの道の起点から徒歩で往復することが目的だが、ルートの途中からアクセスすることも可能だ。「峠の湯」「碓氷湖」「めがね橋」「熊ノ平(旧熊ノ平駅)」の近くには駐車場があるので目的に合わせて利用するといいだろう。
また、運転日限定で本数も少ないがJRバス関東が、横川駅〜めがね橋〜軽井沢駅間で「めがねバス」を運行している(※詳細情報については、記事末に集約する)
ともあれ、時間もかかることだし・・・いざ出発!
昭和の時代に、EF63に連結された特急「あさま」で碓氷峠を越えた方も多いことだろう。しかし、郷愁を誘う光景だ。錆びてしまっているのがちょっとかわいそう・・・
資料館のガイドの方に頂いたパンフレットによると、碓氷関所の起源は醍醐天皇が在位した899(昌泰2)年。平安時代だ。
江戸時代になって現在の場所に移され、東海道の箱根、中山道の(木曽)福島とともに特に重要な関所として“入鉄炮に出女(武器が江戸に持ち込まれることと、人質として江戸に住まわせた大名の妻子が国元に逃げること)”を厳しく監視したそうだ。
このコピーは、信州松代藩・真田家の家臣が碓氷関所の役人あてに提出した通行手形の写しとのこと。読み方は以下の通りだ。
覚え
一つ、この者一人、江戸より信州松代へ差し遣(つか)わし候(そうろう)
碓氷御関所、相違なくお通し下さるべき候
改めて「昔から信州の人々がこの地を行き交っていたのだな」と思いを馳せる。
さて、アプトの道へ戻ろう。