長野県・遠山郷を原点に“故郷”を撮り続ける写真家!秦達夫さんの“これまで”と“これから”

「故郷を残すことは大切なこと」と語る秦さん

はじめに断っておくと、写真家である秦 達夫(はた・たつお)さんの活動拠点は東京だ。

しかし、彼は故郷である長野県の遠山郷で毎年12月に行われる“霜月祭り(しもつきまつり<国重要無形文化財>)”を20年近く毎年撮影し続けてきた。

霜月祭りを撮影した作品(写真:秦 達夫)

そもそも、写真家としての原点には「故郷を残すことは大切なこと」という思いがあると語る秦さんだが、なぜ写真家を志し、これまでどのような足跡をたどってきたのか? そして今後の展望は? 折しも、秦さんの“ホーム”である飯田市で写真展が開催される中、お話を聞かせていただいた。

 

写真展が開催された飯田市美術博物館

実家はカメラ屋さん

秦さんは、長野県南信濃村の出身で、1970(昭和45)年生まれ。南信濃村は、行政の効率化などを目指す“平成の大合併”に伴い、2005(平成17)年に飯田市に編入した。ちなみに長野県の“奥座敷”とも言われる遠山郷は、旧南信濃村と旧上村が位置する地域のことを指す。

遠山郷は、800年あまりの歴史をもつ“霜月祭り”をはじめとして、日本を南北に分断する中央構造線に位置する“遠山温泉郷”や、「日本のチロル」と評される“下栗の里”、景観豊かな“しらびそ高原”など、さまざまな文化や観光資源に恵まれた土地でもある。

そのような環境で秦さんはどのように育ったのだろう?

普通の子供でした(笑)その頃の南信濃村には、小学校と中学校が1校ずつあって、1学年1クラスでクラスメートは36人くらいだったかな? 当時、村の人口は2000人くらいだったと思います」

写真展が開催された美術館は飯田城(長姫<おさひめ>城)跡に建つ

「意外かもしれないけれど、買い物なんかは村の中で間に合いましたね。今ではだいぶ道も良くなったけど、僕が小さい頃は道が良くなくて・・・センターラインが引いてあるような道が“広い道”だとすると、そういう道はあまりなかった」と秦さん。

「高校は飯田長姫高等学校に入学しました。今では学校の名前が変わちゃったみたいだけど(※他の学校と統合され『飯田OIDE長姫高等学校』となった)。サッカー部でした」と、ここまで写真の話がまったく出てこないので、突っ込んでみると・・・

あー全然興味なかったですねぇ(笑)でも、実家がカメラ屋さんで、撮影も含めてなんでもやっていました。だから家にはカメラがあったけど、僕はさわりませんでした(笑)」ということだ。

自動車販売店とバイクショップ

高校卒業後の進路について聞くと「僕は大学に行かなかった。神奈川県川崎市で日産自動車の販売店で営業マンになったんです」と、畑違いとも思える業種に進む。それで、営業マンとしてはどうだったのだろう?

「そうですねぇ・・・車屋さんという職業が特に好きなわけでもなかったので、最初に『3年間で100台売る』って目標を決めたんです。で、頑張って目標を達成したので3年で仕事を辞めました」という。

写真展のタイトルは『The Master’s Hands』

「当時はバイクが好きで、いずれバイクショップを経営したいと考えていました。自分でもホンダのCB750FCという大型バイクに乗っていて・・・当時はレースも盛んだったし、ツーリングクラブとか作って、趣味に生きるバイク屋さんになりたかった(笑)

というわけで、神奈川県内に4店舗を展開する中堅のバイクショップに勤めることになる。

「整備士の資格を取って、工場の1つを任されるようになったんだけど、結局2年で辞めました」とのこと。そして、理由を聞いてみると意外な展開が。

「バイク屋さんになりたいと思っていたんだけど、どうせ店を出すなら、実家がある長野でやりたいなと思っていました。でも冷静に考えた時に・・・子供の頃に地元で大型バイクを見たことがなかったんですよ(笑)

「地元でバイクといったらスクーターかカブだったなぁと思い出して。だから大型バイクを扱うバイクショップをはじめても『田舎で一体誰が買うの?』って思い直しました(笑)」という。

秦さんを支える地元の仲間たち

ちょうどその頃、秦さんのお姉さん(秦さんは3人兄弟で、他に妹がいる)が結婚するタイミングだったということもあり、自然に意識が故郷に向いたのかもしれない。「バイクショップは無理でも実家のカメラ店を継げば、田舎に帰れるかな?」と思ったという。

「もちろん、地元で他にも仕事は探したんだけど、やっぱり無いんですよね。それなら、兄弟3人を育ててくれた親父のやってる店を継げばいいだろうと思ったんです。そして、初めてカメラを手に取った(笑)」と笑う。

 

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