“田舎のカメラ店の親父”になるために
「それで、バイクショップを辞めて、乗っていた車を売って資金を作り写真の専門学校に行くことにしました。“田舎のカメラ店の親父”になるために、写真を勉強してから実家に帰ろうと考えたわけです」
そして、東京・渋谷にある日本写真芸術専門学校に入学することに。この時、秦さんは23歳になっていた。
「入学してからすぐに失敗したなと思いました(笑)カメラの技術的な授業を受けても、わかってないのは僕だけで、まわりの生徒は当たり前のように知っている。高校卒業してすぐの子たちがですよ?」
「でも、考えてみれば当然のことで、写真に興味があるから入学してくるわけで・・・向こうは向こうで『この人は年上なのに、こんなことも知らないのか?』と思っていたんじゃないかな?」と、知識が無いことが原因で疎外感を感じていったという。
「僕は、今でも写真教室で講師を務めますけど『わかんないな』って顔をしているおじさんを見ると『あの時の僕と一緒だな』って、気持ちがよくわかるんです。だから、なるべくそういう人たちが孤独にならないように心がげて教えています」と明かしてくれた。
学生時代の話に戻ろう。秦さんはその後、次第にまわりの生徒や先生たちとも打ち解け、さまざまなことを話すようにもなり、写真撮影に面白さを見出していったそうだ。
「自分がモノクロフィルムで撮ってきた写真が、現像液の中で浮かび上がる。そして、その場所に行くことができなかった人に見せることができる」ということが、とても魅力的だったそうだ。
師匠に出会うきっかけ
秦さんは、この学校で自分の師匠となる人との“縁”を作ることになる。
「1年生の時、同級生に『うちの学校の先生に“超スーパースター”がいる』と聞いたのですが、僕はまったく知らなかった(笑)でも、その先生に学びたくて通う生徒もたくさんいると知って『ふーん』と思っていましたね(笑)」
「2年生になると、より専門的なことを勉強するようになります。将来を考えて学ぶコースを選択するのですが、僕は、当然スタジオで撮影する方向に進もうと思っていました」
「でも、“超スーパースター”がこの学校にいるのなら、その人の授業を受け、話を聞くのも自分の人生にとっていいことなのではないか? と考えたんです」
この“超スーパースター”とは、写真家の竹内敏信(たけうち・としのぶ)氏のことで、日本屈指の風景写真家として著名な人物だ。多くの後進を育てたことでも知られ、2010(平成22)年には、秦さんが通った日本写真芸術専門学校の校長にも就任している。
ということで、志願を変更し竹内先生のゼミを選択した秦さんだったが、思いがけない出来事に遭遇する。
「竹内先生が倒れちゃって、授業ができないということになってしまったんです。ちょっとショックだったけど『まぁいいや。それもまた人生だな』って思いました」
「代わりの先生がゼミを受け持ってくれて、それはとても充実した内容でしたね。被写体は自分の好きなものでいいということで、僕は山とかバイクが好きでしたから、さまざまな場所に出かけては写真撮って・・・そうした体験・経験をもとに学んでいくという感じでした」ということだ。
「卒業する時に先生から『お前これからからどうするんだ?』って聞かれたんですが、その頃には『写真家を目指す』と決めていました。“田舎のカメラ店の親父”になるはずだったのにね(笑)だから就職せずに作品を作って、雑誌に売り込みながら活動していこうと思っていたんです」
お客さんのオーダーに応じて写真を撮る職業を“カメラマン”と定義するなら、“写真家”は、自分の作品をもっとも重視して写真表現を磨きあげる芸術家と説明するとわかりやすいだろうか?
とにかく秦さんはここで大きな決断をしたわけだ。