浅川油田の歴史と事業展開
以下に要点をざっくりとまとめてみよう。
- 浅川油田の採掘の歴史は約250年におよぶ
- 江戸時代のいくつかの文献にその存在が示されている
- 1856(安政3)年に、越後(現在の新潟県)の技術を学び、12本の井戸を掘って採掘がはじまる
- 1871(明治4)年に、浅川油田の石油をもとに日本最初の石油会社「長野石炭油(※)」を設立(本社は東京)
- 同年、苅萱山(かるかやさん)西光寺の境内に、日本最初の石油精製所「長野製油所」を設置
- その後、社名を「長野石油」に変更し、設備投資、他県での採掘などを進めるが失敗
- 1875(明治8)年、長野製油所を南石堂町に移転。西洋風の社屋を建てる
- 1881(明治14)年、社屋が火災で消失したことが契機となり倒産
- その後も、浅川油田の採掘は続けられたが、産出量が少なく質も良くなかったことから井戸は次々と閉鎖された
- 1973(昭和48)年に採掘を終える
※当時は石油のことを石炭油と呼んだ
つまり、浅川油田で産出した原油をもとにして、日本最初の石油会社と製油所が設立されたというわけだ。
ちなみに、かつて長野県では飯山市でも石油が採掘されたが、その遺構は現存しないため、浅川油田が県内に残る唯一の石油井戸とのことだ。
解説をもとに、新旧の長野製油所の位置を現在の地図にトレースしてみた。
西光寺は現在も“絵解きの寺”として、また「善光寺七福神めぐり」の“寿老人”として多くの人々に親しまれている寺院だ。
長野駅から善光寺までが遠い!「善光寺七福神巡り」でその理由を解明するそして、西光寺から移転した先は、道路を挟んだ南石堂町ということで、かつてスーパーの西友が立地した近辺だったという。
どちらも現在の長野駅と善光寺を繋ぐ表参道(中央通り)沿いにあり、今の感覚で考えると「よりによって、なぜ街の中心部に製油所を・・・」と思ってしまう。しかも、実際に火災が発生しているしわけだし・・・
しかし、ここで疑問が。そもそも日本において、いつから石油は必要不可欠な存在になっていったのだろう? だいたい以下のような流れらしい。
- 668(天智7)年 越の国(現在の新潟地方)から「燃ゆる土」「燃ゆる水」を朝廷に献上したという記述が日本書紀にあり
- 江戸時代 石油は「臭水、草生水(くそうず)」と呼ばれていた(当時の文献に「浅川油田は、越後の臭水と似ている」との記述あり
- 明治時代 輸入されたランプの燃料として、日本国内に灯油が普及する(この頃までは石油の利用は、ほぼ灯油に限定されていた)
- 1908(明治41)年 産業革命での内燃機関の発明を経て、フォードT型乗用車の量産開始。ガソリンの需要が急増していく。
(参考資料:石油情報センターwebサイト)
つまり、当時の長野石油や長野精油所が精製していたのは灯油であり、明かりの燃料として利用されていたことになる。そして、その段階で会社は倒産してしまったわけだ。
その後、内燃機関が普及し、2度の世界大戦で石油の重要性が広く認識され、さらに時代は、戦後、モータリゼーション、高度成長、石油化学工業の発展へと進み、石油は必要不可欠な存在になっていった。
それらの進歩とはまったく無縁だった浅川油田は、現在では道路脇にポツン取り残された“古井戸”として残る。しかし、その存在はなんとなく愛おしくもある。
江戸時代から地元の人々に知られていた「臭水」が、幕末、明治維新を経て西洋文化が日本に入ってくるようになり、その“価値の変化”に注目した人々が、臭水を石油としてなんとか売り物にしようと奮闘した歴史がこの場所には刻まれていた。
終わりに
「時代と共に価値が変わる」といえば、その象徴ともいえる構造物が浅川油田のすぐ近くにある。それが浅川ダムだ。
前述した、地附山の地すべり災害の裁判で、県と市の責任を認めた当時の田中康夫知事は、在任中に「脱ダム宣言」をし、浅川ダムの計画は一時凍結された。
浅川ループラインは、ダム工事用の道路としても重要な存在として整備されたといういきさつもあり、今、改めてかつての出来事を時系列に沿って振り返ってみると、いろいろ味わい深いものがある。
その後、2017(平成29)年3月より、浅川ダムの運用は開始された。
施設情報
- 浅川油田
住所:長野県長野市真光寺
アクセス:上信越自動車道・長野IC、須坂長野東ICから約30分
最寄駅:長野駅からアルピコ交通バス・若槻団地線、西条線で約20分、バス停「浅川農協前」を下車、徒歩で約20分