城下町で最古の商店街に現れた劇場の物語!長野県上田市にシアター&ゲストハウス「犀の角」ができるまで

高校受験に失敗して京都の高校へ

ーー上田高校は進学校ですよね?

そうです。親父も上田高校出身で「行かなきゃだめだ」みたいな感じで言われてました。なのに・・・受験したら落ちちゃったんです(笑)。

ーーえー!

それで、予備校に行くことになりました。悔しかったのは僕が入学できなかった年に、上田高校は甲子園に出場したんですよ(笑)。

2つ歳上の姉は、上田高校の生徒として甲子園へ応援に行きました。僕は見送るしかないわけで・・・街中が盛り上がっているのに、自分だけが蚊帳の外みたいに感じました(笑)。

ーー(笑)。

あれ? なんか違うな・・・みたいな(笑)。人生が狂ってきている、自分が思ったようにいかなくなってきていると感じて。

入り口付近にはフライヤーがたくさん置いてある

ーーでも、落石事故が不可抗力だとすると、入試はある意味自分の責任ですよね。

そうなんです。でも、このまま上田高校に行くのもなんか嫌だな・・・と思うようになりました。それで、予備校に通って学力もついたので「記念にどこか受験してみれば?」とアドバイスされて。私立高校を何校か受験したんですよ。

ーーなるほど。

そうしたら、京都の同志社国際高校に合格しました。なんか上田高校に行くよりも未来が開けるような気がして・・・上田高校に行くと、地元の同じ歳の奴らを先輩って呼ばなきゃならないし(笑)。

同志社国際高校は、積極的に帰国子女を受け入れている高校で、全体の1/3だけ一般学生が入学できます。だから、外国の息吹を感じることができるだろうし、自由な雰囲気でもあったので入学することに決めました。

犀の角の劇場&飲食スペース

ーーでは、高校生から1人暮らし?

寮暮らしですね。でも、寮は学校の敷地外にあって監視がとても緩かった(笑)。なので、自由にやらせてもらうことができました。

ーー部活は何かやったのですか?

剣道をはじめました。けがのせいで体のバランスがすごく崩れていたから、体を動かして少しでも解消しようと思って。だから、京都の田舎にある学び舎で部活に励み、友達や寮の仲間と楽しくすくすくと過ごしたという感じですね。

ーー楽しい高校生活だったんですね。やっと報われました(笑)。学校はキリスト教系ですよね?

プロテスタントです。だから、毎日礼拝があって聖書を読みました。なんとなく、当時鬱屈したところもあって、聖書にはそういう人間の根本的な悩みが書いてある。

自分にはその答えはフィットしないんだけど・・・気になる箇所は繰り返し読んでどういう意味なのか考えましたね。

青春時代に思いを馳せる荒井さん

ーー高校生くらいになると、思春期的な悶々とした思いもあるわけじゃないですか?

そうですね。だから小説も読むようになりました。夏目漱石(なつめ・そうせき)とか、紀行文学だと開高健(かいこう・たけし)とかを読んでましたね。

あと、当時は村上春樹(むらかみ・はるき)の『ノルウェイの森』がベストセラーで、男女間の描写をドキドキしながら読みました。なんで、主人公はこんなにもてるんだ!? とか思いながら(笑)。

ーー(笑)。

でも、彼の物語のモチーフになっている“深く降りていく”感じ・・・『ダンス・ダンス・ダンス』とか『羊をめぐる冒険』もそうですけど、深いところへ降りていって、もう1回戻ってくる。そんな旅をしている感じはすごく好きでした。

ーーその頃はまだ演劇には興味がなかった?

むしろネガティブに見てました(笑)。でも、文化祭みたいなイベントで、クラスで創作ダンスをやることになった時は、率先して行動しましたね。姉がクラシックバレエをやっていて、その姿をずっと見ていたこともあって。

“サイノツノ”っぽいオブジェが飾られていた

スポーツは苦手なんだけど体を動かすことは好きだったんです。だから、『ダンシングヒーロー』とか、アメリカのミュージカル映画を参考にしながら振り付けを考えたりして(笑)。

ーー『ストリート・オブ・ファイヤー』とか?

そうそう! いいですよね。あの時代の空気感(笑)。みんなで充実した時間を過ごすことができました。

ーーまさに青春の1コマですね! それで、そのまま大学へ進む感じですか?

そうですね。同志社大学へと進学しました。

ジャーナリスト志望から演劇人へ

ーーエスカレーター式の大学ってどんな感じに学部を選ぶのでしょう?

成績がいい人ほど自由に選べるんですけど、当時、優秀な人たちは法学部に進んでいましたね。大学には法学部、経済学部、文学部、神学部があって・・・それで、同志社大学の場合、文学部には社会学科があったんです。

その頃は、ジャーナリズムに興味があって・・・新聞記者になりたいと思っていたんですよ。調査や取材が好きだったし。社会学科には新聞学もあったのでそこに進むことにしました。

海野町商店街に面した窓側の席。たくさんの本とピアノが置いてある

でも、大学に入って1年目に、NHKのドキュメンタリー番組でやらせ事件が発覚して、いきなりジャーナリズムに失望してしまって(笑)。

ーージャーナリストを志望した理由は、ものごとの本質に迫りたいという動機だったのですか?

当時は、オウム真理教なんかも流行っていて、宗教系の人たちが何かを探求しようとしている・・・そういう人たちのことが滑稽に映りながらも、欲していることは自分と同じだと思っていて。

それで、自分なりの真実を追求したくてジャーナリストになりたいと思っていましたが、そうじゃないところでジャーナリズムはまわっている。つまり、商業の一部として否応なく組み込まれているという事実がわかった時に、一気にモチベーションが下がってしまいました。

犀の角には薪ストーブも完備

それが大学1年生の時だから、その後どうしていいかわからなくなって・・・そんなタイミングで演劇と出会うんです。

ーー演劇との出会いはどんな感じだったのですか?

新聞学のゼミで一緒だった女の子がすごくおもしろい人で、友達になったんです。それで「稽古場に遊びに来ない?」と誘われて・・・人が足りてないからちょっと手伝ってくれみたいな感じで、連れていかれたんです。

ーーそれは学校内の劇団?

学内のサークルですね。学校内に部活の部屋があって稽古場になっているんです。そこで、みんなが台本を片手に議論をしたりしていて。こんなに一所懸命になれることがあるなんていいなぁ、ちょっと手伝ってみようかな? と思うようになったんです。

薪ストーブの燃料たち

ーー手伝いというのは裏方の仕事?

そうです。「音響をやってもらえないか?」という話になって。科学が好きだったので仕組みはだいたいわかっていたし、専門的な機材に触ってみたいという理由もあった(笑)。

そのうちに、学校外の劇団の公演も観るようになって・・・立ち上がれなくなるほど感動した作品とも出会いました。こんなものが世の中にあるのか!? と思うくらいに衝撃を受けて・・・その時に、自分も演劇を追求すればいいんじゃないか? と思ったんですね。

ーーでは、ジャーナリストになろうという思いは挫折したものの、割とすぐに次の展開が見えてきたという感じ?

そうですね。それから、脚本を書いて演出をするようになったんです。その劇団は公募制で・・・つまり作品をコンペで決めるんです。演出をやりたい人は、あらすじを書いてみんなの前でプレゼンをするわけです。

はじめて脚本と演出を担当した頃を振り返る荒井さん

ーーどんな脚本だったのですか?

一応オリジナルですね。大阪・西成のあいりん地区・釜ヶ崎というところで、当時暴動事件が発生して、その事件をモチーフにしつつ自分の思いを込めて書きました。だから、1年生の時に音響として劇団と関わるようになって、すぐに脚本と演出をやることになったわけです。

ーーその作品の公演はどんな反響でした?

結構受けたんです。お客さんもたくさん入って。まわりの人たちも喜んでくれて、「才能あるんじゃない!?」とか言われて(笑)。

それで、2作目を作ることになったんだけど・・・その時に、新しい劇団を旗揚げしました。1作目の評判がよくて他の劇団の人たちからも「一緒にやろうよ」と誘われたこともあって。

 

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