夏は暑いものだ。とはいえ・・・夏に関する単語ですら近頃では過激さを増している気がする。酷暑、猛暑、熱波、熱帯夜・・・入力しているだけで暑苦しい。
下降していく食欲。それに比例するように、労働意欲とテンションもだだ下がりであることは否めない・・・こんな日はさっぱりとした麺が食べたい! そう、醤油味の“かえし”がキリッと効いた昔ながらのつけ麺を。
というわけで、以前から気になっていたお店がある長野県須坂市へと向かうことにした。
つけ麺の誕生と丸長
須坂市は、長野県北部にある人口約5万人の都市だ。かつては須坂藩1万石の陣屋町として、また近代に入ってからは製糸業が発達し、当時の繁栄を偲ばせる“蔵の町”としても知られている。
目指すお店は、その長野電鉄長野線を湯田中方面に向かい、1つ隣にある北須坂駅が最寄り駅となる。
訪れたのは、「丸長(まるちょう)須坂店」だ。
お店の方とお話しして知ったことだが、実はこの丸長という屋号には長い歴史があり、つけ麺の誕生とも深い関係があるそうだ。
ことの始まりは、1948(昭和23)年。東京都杉並区荻窪でそば職人の青木勝治氏が中心となり、5名による共同経営で「中華そば店丸長(丸長荻窪本店)」が誕生する。屋号である丸長の“長”は、長野県の“長”で、これは5人の出身地が長野県であったことに由来する。
中華そば店丸長は、戦後物資が不足する中で、そば職人らしいアイデアで味を追求する。手打ち麺にこだわり、ラーメンのスープにはじめて鰹節を使用するなど、その味は“荻窪ラーメン”の元祖として、戦後の日本のラーメンに多大な影響を及ぼした。
その後、共同経営者たちは、それぞれの店を独立開店していく。その中のひとつが坂口正保氏による「中野大勝軒」だ。
後に代々木上原に店を移転させ本店とし、中野大勝軒は支店となるが、その支店を任されていたのが「ラーメンの神様」として有名な、坂口氏の又従兄弟である山岸一雄氏(長野県中野市出身)なのだ。
つけ麺は元々、丸長のまかない料理だったそうだが、客からの要望によって商品としてはじめて提供したのは中野大勝軒だと言われている。その後、山岸氏はのれん分けで「東池袋大勝軒」を開店。一気につけ麺は全国的に知られる存在となっていく。
現在、長野県には3店の(中野市、須坂市、長野市)丸長があるが、東京にある「丸長阿佐ヶ谷店」で修行した店主が池袋で独立し、1982(昭和57)年に中野市にのれんを移したのが「丸長中野店」だ。
今回訪れた「丸長須坂店」は、丸長中野店の支店ということだが・・・しかし、つけ麺というメニューの背景には、信州人たちの創意工夫や信州そばの影響があったということを今回はじめて知った。ちょっとロマンを感じる話ではないだろうか。
それでは、オリジナルの流れを組むつけ麺をいただこう!