旧碓氷峠にある「熊野神社・本宮」は長野県と群馬県の県境に鎮座している!?

境内をさらに進む

境内をさらに進んでいくと・・・

熊野皇大神社(長野県側)の拝殿(那智宮)が左側に

熊野神社(群馬県側)の拝殿(新宮)が右側に

そして参道の正面に鎮座するのが長野・群馬共通の熊野神社・本宮

色分けしてみるとこんな感じか?

ここで、神社の由緒についてまとめておこう。

かつては1つの神社として、長倉神社熊野宮(または長倉山熊野大権現、碓氷神社、熊野大権現)と呼ばれていた。

神社に伝わる伝説によると、日本武尊が東征の帰路でこの地を通った時に濃霧にまかれたが、八咫烏(やたがらす)の道案内によって、無事頂上に達することができた。

碓氷峠に立って自分が登って来た方角を振り返ると雲海が見え、そこから海を連想し相模灘で荒波を静める為に海中に身を投じた最愛の妻、弟橘姫(オトタチバナヒメ)を偲び、「吾嬬者耶(あづまはや※ああ、いとしき我が妻よ)と3度嘆いたということだ。

この事から、この山を「長く悲しんだ山」と言うようになり、それがにごり長倉山となったという。

日本武尊はこの八咫烏の導きを熊野神霊の御加護によるものと考え、ここに熊野三社を祀ったとのことだ。

本宮(両県に鎮座)
伊邪那美命(イザナミノミコト)
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)

新宮(上州鎮座)
速玉男命(ハヤタマオノミコト)

那智宮(信州鎮座)
事解男命(コトサカオノミコト)

参照:熊野皇大神社熊野神社webサイト

日本武尊が「吾嬬者耶(あづまはや)」と嘆いたというエピソードは、長野県歌『信濃の国』の6番で「吾妻はやとし日本武 嘆きたまいし碓氷山」と歌詞にもなっているので、ご存じの方も多いことだろう。

さらに本宮へと近づいてみると・・・

左側には熊野皇大神社(長野県側)の石碑が

右側には熊野神社(群馬県側)の石碑が

そして本宮へと進むと・・・

賽銭箱と鈴も2つある!

こういうことだよね・・・なんか不思議な光景だ

拝殿の扉に、長野県側と群馬県側の参拝方法がそれぞれ掲示されていた

長野県側の参拝方法

・先に御鈴を鳴らして下さい。お賽銭を納めて下さい。
・ただいまより参拝いたします。と小さく一礼致します(十五度)
・三歩前へ進みます。
・どうぞ○○○○をお願い申し上げます。と深く二礼致します(九十度)
・次に二拍手致します。
・ありがとうございました。と深く一礼致します(九十度)
・失礼致します。と小さく一礼致します(十五度)

群馬県側の参拝方法

・まず、鈴を振る(お祓を受け、神徳発揚を願う)
・次に、お賽銭を上げる(感謝の印をささげる)
・二拝(二度深く、おじぎ)
・二拍手(二度元気よく、拍手)
・【祓え給え、清め給え、守り給え、幸わえ給え】と心の中で三度となえる
・一拝(一度深く、おじぎ)
注:神様へのお参りの「拝」は腰を九十度曲げる作法です。

それぞれの、作法に従いお参りした。・・・きっと御利益も2倍あるに違いないと思う。

長野側にあった、樹齢850年以上といわれているご神木「科の木」

群馬側には「安政遠足決勝点」の立て札があった

「安政遠足(あんせいとうあし)」とは、かつて上州安中藩が鍛錬のために藩士をこの神社まで走らせた競争で、日本におけるマラソンのルーツともいわれているとのこと。

終わりに

現在の神社が、2つの宗教法人によって運営されていることはわかったが、もともとなぜ国境に鎮座することになったのかは明確ではないそうで、ある書籍では、以下のように推察していた。

熊野三社を勧請したいま一つの理由に、峠がしばしば国境であるために、境の神として祀られたとも考えられる。国と国、村と村との境界は山岳地帯ではしばしば分水嶺があてられている場合が多い。国境紛争は昔から発生件数が多く、いわゆる境界論争が絶えなかった。そのために、境界線を定めるのに地蔵菩薩の石像を建てたり、神社を祀って、宗教的な力によって一定する方法がとられた場合が多い。
引用:萩原 進『碓氷峠(歴史と風土)』(有峰書店、1973年)

どちらにしても、国境(県境)に鎮座する神社であるが故に、両国(両県)の人々にこよなく愛され、信仰されることになったのは間違いないだろう。

振り返れば右側と左側が入れ替わる。右が長野で左が群馬!

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