大学をドロップアウトして笠間で修行する
笠間では2人の先生について勉強したそうで「1人は女性の作家(堤 綾子氏)。90歳でいまだに現役です。すごいでしょ? もう1人は男性の作家(伊藤東彦氏)今や大家です。1976〜1977(昭和51〜52)年ごろのことかな」
「笠間に行ってみたら、伝統的な笠間焼きではなく、“自分のアート”をやっている人たちがたくさんいました。笠間は早いうちから外部の人間を受け入れていていたんです。すごく刺激を受けたし、みんな“土”に根ざした生活をしていました」
「つまり、陶芸に使う土もそうだし、あと、自分の畑で作物を作りながら、土に密着した生活を送っていた。自然と陶芸が生まれてくるような土壌があったと思います」そんな環境の中、結局ルミさんは大学を辞めて、笠間での修行に没頭していったそうだ。
「あのころは、何を作っても一定レベル以上の作家だったら、ものすごく売れました。例えば、私の先生が東京・日本橋の三越で個展を開催すると、開店前に予約で作品が全部売り切れていましたね」当時はそんな景気の良い時代でもあったそうだ。
そのような状況もあり、当時の笠間には「いずれ自分の工房を構えて独立するぞ」という野心を持つ若者がたくさんいたとのこと。
しかしルミさんは、生活と仕事が両立できるシンプルな暮らしを目指し、修行に打ち込んだという。
「結局、笠間には4〜5年いました。夢中で陶芸に打ち込んだけど・・・でも、ちょっと外の世界を見たくなって『どこかに行きたいな』とふっと思っちゃったわけ」。それは1980〜1981(昭和55〜56)年、ルミさんが23〜24歳のころだったという。
メキシコからグアテマラへ
ルミさんはまずアメリカに渡り、知り合いのツテがあったというメキシコへ1人でバスに乗って向かった。
当時のメキシコの治安はあまり良くなかったとのことだが、現地で知り合ったドイツ人のグループに「南米のグアテマラに行くけど、君も行かない?」と誘われたそうで、行ってみることにしたそうだ。
「グアテマラは、日本の山間部と似た風景で、違うのはカラフルな民族衣装を着たグアテマラ・インディアンの人たちが、ゆったりと暮らしていること。あとはここ(現在の住居・工房)の環境とそっくりで、すごく落ち着く場所だった」という。
「山の中には、たくさんの部落があって、それぞれの部族ごとに身につけている織物があり、それを見ればどこに属しているのかがわかる。その織物(いざり織)に魅せられました」とのことで、ルミさんはインディアンに教わりながら毎日織物をしていたとのこと。
「当時、政情は不安定だった。インディアンの人たちも迫害されていたと思う。でも、そんな中でも自分たちの生活を確固として守り、みんなゆったりと暮らしている。そこには、何か先進国の人々が忘れていたような生活があった」と感じたそうだ。
ロベルトさんとの出会い
ルミさんは、この地で夫となるロベルトさんと出会うことになる。
「ロベルトはニューヨークのブルックリンに生まれ育ち、グラフィックデザインをやっていた。ニューヨークで稼いでは、グアテマラに戻るという感じで暮らしていたんです」とルミさん。
「私より19歳年上で・・・ビートルズ世代でね。ビートルズのファン向けの最後のアルバムのアートワークをやったこともあるんだって。ジョン・レノンのサインでももらっておけばよかったのにね(笑)」と笑う。
余談:筆者がジーンズに空いた大きな穴を指さすと「マイベストファッション!(笑)」と答えるロベルトさん。そこに「セクシー」とかぶせるルミさん。実にかっこいい2人だ。
閑話休題。
「たまたま出会ったんだけど・・・その、いまだに理由は摩訶不思議(笑)。やっぱり、グアテマラの環境が美しすぎたのかな? お互いにマジックにかかっちゃった。そんな感じで一緒になりました(笑)」と、なんとも素敵なエピソードを教えてくれた。
「それで、しばらくグアテマラに滞在していたんだけど、お金がなくなっちゃって・・・仕事で来てるわけじゃないしね」
「お金はかからない生活なんだけど、ずっとこのままという訳にもいかないので『じゃあ一発稼いで来るか!』ということになって、ニューヨークに行くことにしました。グアテマラには結局1年近くいたかな?」ということで、新天地へと向かったそうだ。
ニューヨークでの生活
ニューヨークではイーストヴィレッジに暮らし、ロベルトさんとも籍を入れたそうだ。
「英語はニューヨークに行ってから覚えました。グアテマラの公用語はスペイン語だし、私たちが滞在していた場所は、いろいろな国の人がいたから、身振り手振りに英語を交えてという感じでコミュニケーションを取っていたんです」
「でも、ニューヨークでの生活はお金を稼ぐのが目的。それには英語が必要だということで、朝早くからフリーの語学学校に通い、昼からはロベルトのデザインの仕事を手伝って、夕方からは高級和食レストランで働きました」と、いきなり目がまわるような毎日になる。
「和食レストランには日本人の従業員も多く、ちょっとした“小さな日本の縮図”があって、“いじめ”にもあったりしましたよ(笑)。でも、本人はいじめられていることに気がつかない・・・私はそういうことにすごく鈍感なんです(笑)」と笑う。
「でも、よく話を聞いてみると、他の働いている子たちもダンサーになりたいとか、みんなそれぞれの夢に向かって・・・何者かになりたくてこの地に来てることがわかった」そうした人々の存在はとても刺激になったとのこと。
「結局、1年くらい働いたんだけど、最後には“さよならパーティー”で、送り出してもらいました(笑)」と、当時を振り返ってくれた。