一番最初に作ったのは息子のハンチング帽
「私は、高校を卒業してから子供が生まれるまでニットメーカーで働いていたんです。だから、裁縫の技術はもともとありました。出産を契機に退職したんですけど、生まれてきた息子の頭がすごく小さくて・・・だから、帽子を被せてあげたかったのですが、赤ちゃん用の帽子って売ってないんですよ」
「しょうがないから、自分の着古したTシャツを使って息子に帽子を作ったんです。旦那が帽子好きだったということもあって・・・見よう見まねでハンチング帽を作りました」
そして、手作りしたハンチング帽を被った息子さんと一緒に近所を散歩していたところ、まず反応したのは、まわりのお母さんたちだったという。
「近所のお母さんたちが『その帽子どうしたの?』って聞いてくるんですよ。自分で作ったと答えると『きっと売れるからもっと作ってみたら?』と言われて」と髙倉さんは振り返るが、実はもうひとつ作品を作り続けることになる大きな出来事があったという。
「離婚したんですよ(笑)。それで、そのことが原因なのか、息子が大人を怖がるようになってしまって・・・」もしかして息子さんの前で怒鳴り合いの喧嘩でもしたのだろうか?
「いやいや(笑)。もう、喧嘩にもならない感じで・・・でも、そんな状況を子供なりに感じたんでしょうね。大人が近づくと泣くようになってしまった。だから、大人ってそんなに怖くないよ! ということを子供に伝えたくて、作品を作ってイベントで売ってみようかな? と思いました」
「街の活性化のために駅前で開催されているイベントがあって・・・いわゆる地元のイベントなんですが、参加してみることにしました。そこで、赤ちゃん用の帽子を作って売りはじめたんです」
イベントには息子さんを連れて参加していたそうだが、そのようすは目に見えて変化していったという。「息子もいろいろな人に会うようになったら、全然泣かなくなってね。路上でも平気で寝ちゃうような図太い子になりました(笑)」
「息子も、月に1回イベント仲間と会うのが楽しかったようですが、うちの両親もなぜかやる気になってしまって(笑)。私の作品だけだと場が持たないということもあって、母も手編みの帽子を出品するようになりました。そのうち父も、木材を加工して家の形とか鳥の形の木製のボタンを作るようになりました」と、家族みんなでイベントを楽しむようになっていったそうだ。
ちなみに髙倉さんは、生まれてからずっと岡谷市で暮らしてきたそうで、職場だったニットメーカーがあるのも隣接する自治体である下諏訪町。ゆえに親元を離れて暮らしたことがなく、また結婚してからも岡谷市に住んでいたため、「自分の世界はとても狭い」という思いがどこかにあったという。
「でも、イベントに出るようになってからは、気が晴れたというか・・・人と直接会って自分が作った作品を売るという事でとても救われましたね。それに、家族みんなで出店するのがすごく楽しくて」
きっとご両親は離婚のことを気に掛けていたんですね、と聞いてみると「たぶんね(笑)。だから、イベント=モノづくりをきっかけに、すべてがいい方向に向いていった感じです」と当時を振り返る。
「最初は帽子だけを売っていました。当時からぬいぐるみも作ってはいたんだけど、売る気はあまりなくて・・・でも『おもしろいぬいぐるみだから売ってみたら?』とまわりの人が言ってくれて」
その後、ぬいぐるみや雑貨を販売するようになってからは、「ご飯を食べない子供の隣に髙倉さんのぬいぐるみを置いて、『ぬいぐるみさんは食べてるよ』って言うと食べてくれる」と話してくれたお母さんや、がんの治療に通っている方から「治療する時に、髙倉さんのキーホルダーを握りしめているとすごく勇気を貰える」など、嬉しい反応も頂くようになったそうだ。
髙倉さんは「自分の作品が誰かの役に立つのは嬉しいことだし、それなら頑張ってぬいぐるみも作ろう」と思うようになったそうだ。
内職と作品作り、そしてクラフトフェアでの出会い
地元のイベントに出店するようになってからはいいことづくめだったが、離婚をしたということもあり、作品作りを続けながら稼いでいくのは大変だったそうだ。
「仕事は、かつて勤めていたニットメーカーの下請けをさせてもらっていました。ようするに内職です。私は特殊な機械を使うことができたし、外注さんも年々減っているという状況もあって、仕事はバンバンもらえましたね」
「だから、日中は内職をフルにやって夜中に作品を作る。という感じだったのですが、作品を作るのは大変だしなかなか売れないし、子供も連れていかなきゃならないし・・・イベントに出店することにちょっと嫌気がさしていた時期もありました」
「でも、両親が『なんでやめるの? みんな楽しみにしてくれてるのに・・・絶対やめない方がいい!』と言ってくれて。だから、今振り返ると両親がそう言ってくれなかったらやめていたかもしれないです」ということなのだが・・・
もしかしたら、ちょっと変わった親子なのかもしれない。子供もいるわけだし、「まともに就職して欲しい」と考える親の方が多いと思うのだが・・・
「そうでしょ?(笑)。結局、親もすごく楽しかったんだと思うんですよ。『おじいちゃん! おばあちゃん!』って若い人達から声をかけてもらえるし。私もそうだけど、父や母もやりがいを見つけたというか・・・息子もそういう大人たちの姿を見て活発になっていったわけだし。だから、うちの家族はそのイベントに救われたというか・・・そういうことを言いたかったのかも」
結局、地元のイベントには引き続き出店を続けたそうだが、そんな中で思わぬアドバイスを受けたそうだ。「ある人に『こんな小さなイベントじゃなくて、クラフト市(※)に出店してみたら?』と言われたんです・・・でも、当時の私はクラフト市が何かすら知らなかった(笑)」
「なかなか出店できないと聞いていたのですが、初めて応募したらすんなりと通って。それで、2008(平成20)年に初めて『八ヶ岳クラフト市』に出店しました」
「八ヶ岳クラフト市では、やっぱり手作りの作品を好むお客さんが多くて、私のぬいぐるみも大好評でした」と、確かな反響があったそうだ。その後、大規模なイベントとして全国的にも有名な「クラフトフェアまつもと」の存在を知り、お客さんとして行ってみたそうだ。
“モノづくりの祭典”に全国の作家が集結!長野県松本市の「クラフトフェアまつもと」「クラフトフェアまつもとでは、名古屋から来たという人達が声を掛けてくれて・・・その時、一緒にいた息子が私の作った帽子を被ってたんですよ。それで気がついたみたいで『私たちあなたのファンです』と言われてね(笑)」
「え! 私のファンっているんだ!? ってビックリして(笑)。以前、私の作品を見かけて好きになってくれたらしくて・・・でも、そんな人が本当にいるんだと思って」
「その日は、他にも息子の被ってる帽子を見て反応してくれる来場者が多くて『その帽子は会場のどこで売ってるんですか?』と何度も聞かれて・・・私が作ったんですけど今日は出店してないんですと答えると、残念がってくれる方も多くて・・・こんなに、私の作品に反応してくれる人達がいるんだなと思いました」
クラフト市というイベントは、木工や陶芸といったある意味トラディショナルな職人さんの作品が多いイメージだが、髙倉さんのアバンギャルドな作風は、どのように思われていたのだろう?
「隣にガラス細工の職人さんが出店してたりすると、すごく嫌がられました(笑)。私のブースはぬいぐるみの展示なので子供の出入りも多いし。ガラス細工は割れるからね(笑)。あとお客さんからは『雑貨系みたいな人が出店していいのか?』とか『ジャンルがよくわからない』というような突っ込みを受けたり(笑)」 と、ちょっと浮いた存在ではあるとのこと。
「結局、クラフトフェアまつもとには5回応募したんですけどすべて落選しました(笑)。でも、八ヶ岳クラフト市には、ずっと出させてもらっていて、ある時期には実行委員を務めたりもしました」
その後、息子さんが中学生となり部活がはじまったため、土日に精力的に活動するのが難しくなったそうで「クラフト市には、落ち着くまで出店するのをやめることにしました」ということだ。