長野県民なら誰でも知ってるラーメンチェーン!?「みんなのテンホウ」の伝説【前編】

百代おばあさんの先見性と行動力

当時、百代おばあさんの娘さんが東京に住んでおり「おいしいものを食べさせてあげる」と連れていってくれたのが、まだそれほど庶民になじみがなかった“餃子”を提供する「餃子会館」というお店だったそうだ。

日本で餃子が広く食べられるようになったのは、戦後になり中国(当時の満州)からの引揚者によって広められてからのことで、はじめて餃子を食べた百代おばあさんは「なんて!美味しいんだ!」と、その味に感激し惚れ込んだという。

餃子会館があったのは、新宿区歌舞伎町。現在の地図と照らし合わせてみると「オスローバッティングセンター」の近くにあったそうで、行列ができる大人気店だったそうだ。

百代おばあさんは、作り方を教えて欲しいと餃子会館に頼み込んだそうだ(ちなみに、百代おばあさんは当時50歳を過ぎていたとのこと。その行動力に感嘆する)

当然ながら店主からは「教えられない」と断られる。しかし、あきらめずに何度も何度もお店に通いお願いし続けたとのこと。

そして、その熱意にほだされたのか「じゃあ働いてみるか?」とお店に迎え入れてもらい、店員さんに邪魔者扱いされながらも“無給”で働き続けたそうだ。実は、百代おばあさんの体はそれほどじょうぶでは無く、文字通り“必死”になって働いたとのこと。

3ヶ月間働き続け、なんとか店主に認められて「おばさんよく頑張ったなぁ。作り方を教えてあげるよ。でも、人に教えちゃいけないよ」と、餃子やタンメン、チャーメン(野菜炒めにからめた汁のない麺)などのレシピを教えてもらったそうだ。

そして、諏訪に戻った百代おばあさんは、旅館の一角に「天宝 鶴の湯 餃子菜館」をオープンさせる。開店時には、歌舞伎町の餃子会館のお店の方たちが手伝いにきてくれたそうだ。

旅館と並行しての営業だったが、この地ではじめて餃子を出した店であり、“餃子会館仕込み”の味はたちまち大評判を呼んだ。お客さんが増えていく中で、徐々に店舗スペースを拡大していき、何年かののち旅館は廃業したそうだ。

「天宝 鶴の湯 餃子菜館」の店頭。写真左が初代社長で大石さんの父・孝三郎さん、右が孝一郎おじいさん、右・手前が百代おばあさん

大石さんの叔母さん。右奥にメニューが見える

写真を見ると、餃子と白乾(ぱいかる・中国の焼酎。白酒<パイチュウ>ともいう)が、それぞれ50円で売られていたことがわかる。当時は、この組み合わせがもっとも人気があったそうだ。

現在もテンホウの定番メニューである、餃子とチャーメン、タンメンは創業時から続くメニューとのことだ。

餃子と書かれたちょうちんが吊り下げられた当時の店舗

お店は大繁盛していたが、日本の経済が右肩上がりに成長する時代でもあり、日本中で飲食店が急速に外食産業化しつつあったのもこのころだ。

 

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